バンライフで日本一周をする大学生クリエイター集団「VAN TRIGGER(バントリガー)」さんの連載企画。今回は、北海道の函館市からフェリーで4時間、青森県に到着し、岩手県、宮城県へと向かう。途中は各県で名物を食べたり、歴史に触れたり、友だちとの合流などもたくさん行った。
記事中画像提供:VAN TRIGGER
気仙沼で感じる東日本大震災
青森県から岩手県へ
夕方に函館港からの4時間ほどの船旅を終え、本州最北端である青森県へと到着した。
僕たちが今回使ったのは、青函フェリー。
青森県から北海道へ行くときは、津軽海峡フェリーで、青函フェリーとは明確な違いがあった。
時間的に今回は青函フェリーがタイミングが良かったので青函フェリーにした。
ちなみに本数などはあまり変わらないが、青函フェリーの方が早いのがあった。
まず乗ると、見た目は変わらないが、びっくりするくらい臭いがする。
まぁ車を置くだけなので全然構わない。
中に入っていく。
入ってから驚いたのだが、乗客スペースがめちゃくちゃ狭い!
ワンフロアだけだし、自由席も4部屋だったのでフロントスペースにも人がいた。
(帰りに撮ったのでこの時は人はいないが、移動中はここもぎゅうぎゅう。)
津軽海峡フェリーは自由席は15部屋以上あったし、個人部屋もかなり多くあった。
また、青函フェリーはトイレやシャワーも少し古めだ。
シャンプーなども青函フェリーはなかったが、シャワーあるだけでもうれしい!
まとめると、青函フェリーは津軽海峡フェリーよりも古く狭い!という印象だ。
とはいえ、値段はやはり安かった!
3人+車で津軽海峡フェリーが約27,000円なのに対して、
青函フェリーは18,780円と約10000円近くやすい!
この差は明らかだったが、たった4時間のフェリーでの移動。シャワーもあったし居心地もそこまで変わらないので、安さ重視の方は絶対に青函フェリーの方が良いと思う!
ここまで値段に差があると行きも青函フェリーにしておけばよかったと後悔した。
でも両方乗れて比較できたのは良い経験だ。
朝は8時半ごろのフェリーで函館港を出たので、朝ごはんも食べる暇もなく、そして4時間もの間フェリーに乗っていたので、昼ごはんも食べていなくお腹が腹が減って仕方なかったので、着いてすぐにすき家へと向かい、大盛りをお腹いっぱい食べた。
その後、青森県から岩手県へと向かった。
岩手県は色々回ろうと思ったが、ルートや時間や季節的な部分で合うところがあまりなかったのでとりあえず4時間ほど車を走らせて盛岡市に到着した。
盛岡と言えば盛岡冷麺。盛岡冷麺を食べることが僕(オズ)の大の楽しみだった。
実は日本中をたびしても、世界中を旅していても食にほとんど興味のない僕(オズ)は、その土地の名物とかにもあまり興味がない。
だがしかし冷麺が大好きで、本場韓国にまでも冷麺を食べに行くほどで、盛岡冷麺だけは外せなかった!
翌朝、到着したのは地元の人が通うような食堂。
この日は一日中マクドナルドにてそれぞれ作業を進めていたので腹ペコだった。
マクドナルドの目の前には焼肉・冷麺のチェーン店があったが、なんか気分的に嫌だったので、少し歩いて食堂へと向かった。
頼んだのはもちろん盛岡冷麺。
辛さが普通、弱、中、強と4段階で別れていて、上から2つ目を選んで頼んだ。
どーんと現れた盛岡冷麺はすごく大きく美味しそうだ。
冷麺に入っているキムチ大根が大好き。
そして驚いたのは、冷麺の中にみかんとパイナップルが入っている!盛岡冷麺の特徴の一つとしてフルーツが入っていることが挙げられ、一般的なものだと、季節に応じてスイカやリンゴ、梨などが入っている。
これには驚いた!
最初見つけた時は目を疑ったが、食べてみると冷麺の辛さを少し抑えてくれて、味としてもすごく合う。
あまり料理の中にフルーツが入っているのは好きではなかったが、ここの盛岡冷麺はすごく相性がよく好きだった。
ちなみに韓国で3軒ほど冷麺を食べたが、本場韓国冷麺と盛岡冷麺の違いは、冷たさと酢だ。
まず冷たさで言えば、韓国冷麺はどこもキンキンに冷えているし、氷も必ず入っている。
盛岡冷麺は冷たいは冷たいが韓国ほどではない。
また酢で言えば、韓国冷麺は追い酢をしなくても元々少し酢の味がするが、盛岡冷麺は追い酢をしないと酢っぽさは感じない。
観光で生まれた冷麺を盛岡に持ち込み、独自の工夫をもたらして生まれた盛岡冷麺。そしてジャージャー麺、わんこそばと並び、盛岡三大麺の盛岡冷麺を食べれて本当によかった。
翌日も盛岡市内のマクドナルドにて作業をし、次なる地である宮崎県気仙沼市へと向かった。
気仙沼で感じる東日本大震災
昨日、気仙沼市のそばにある道の駅で車中泊をし、翌朝気仙沼市に入った。
気仙沼と聞いてどんなことをイメージするだろう。ほとんどの人が「東日本大震災の被災地」とイメージすると思う。
僕(オズ)は、元々貧困や被災のボランティア団体に入っていたり、個人としても西日本豪雨で被災した岡山県倉敷市真備町や台風19号で被災した福島県いわき市など、被災地へと足を運ぶ経験も少なからずあった。
しかし東日本大震災で被災したところへは行ったことがなかったし、東日本大震災が起こった時は2011年、僕たちはまだ小学生だ。
東日本大震災は被災地へ行ったこともないし、なんなら知っているようで詳しくは知らない。
そして僕(オズ)は同級生に気仙沼市で東日本大震災に遭い、家が流された方がいる。またその同級生から友だちの何人も親を亡くしたり、大事な人を亡くしているということを聞いていたので、実際に行ってどんなところなのか。どんな被害や影響があったのかを知りたかった。
三陸道を走りながら気仙沼市へと向かったのだが、陸前高田や大船渡など東日本大震災の際によく名前を見ていた地域が出てくる。
しかし辺りを見ても東日本大震災の影響は綺麗な町並みで感じない。しかしこの綺麗さが影響を伝える一つになるとはこの時は感じなかった。
気仙沼市に到着した。
この写真を見てもらいたい。
本当に綺麗な街並みである。
新しい建物、新しい道路、新しい信号・電信柱。
先程も述べたが、この綺麗さこそ、東日本大震災の被害を伝える一つなのかもしれない。
実はこの辺りは海から数十メートルから数百メートル。
東日本大震災で一番被害を出した津波が来ていた場所だった。
?建物に何か見える。
近くまで行くと、
津波がここまで来たということを表しており、6.7メートルの高さまで浸水したことになる。
建物の2階まで浸水していたのだ。当時この辺りが海の一部になっていた。
津波に呑み込まれ、建物が流されたり、水が引いた後はがれき、そして数々の思い出がこの辺りに散在し、街が破壊されていたのだ。
だからこそ、この辺りは“綺麗”なのだ。
地元の人、救急隊員、ボランティアの方などにより片付けがされ、新しい建物などが建ち、その地にまた街が帰ってきたのだ。
綺麗さが残酷を伝えるなんてはじめての感覚であり、強烈な印象があった。
また街には多くの場所でこのような標識を見る。
津波により浸水をした地域を表すものである。
自分が今いるこの場所から海までの全てが浸水したと思うと恐怖を感じる。
街をぐるぐるして今の現状というのものを見ていった。
東日本大震災のことを知らないでこの街を見たらその綺麗さに、あの悲惨な光景をイメージ出来る人なんてもちろんいない。だが、今残る標識などの被災の印を見ることによって、あの日テレビで見ていた残酷な光景が目に浮かぶ。
街を見た後、僕(オズ)が一番来たかった気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館へ向かった。
【気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館、ホームページ】
名前の通りここは、東日本大震災を後世まで伝承するために作られた場所だ。2019年3月10日にオープンした。
元々は気仙沼向洋高校として使われていた建物で大きな被害を受け、取り壊しも検討されたが伝承館として残された。
この建物がある波路上という場所は、気仙沼市の中でも大きな被害が出た地域の一つだ。
辺りは現在でも建物が建設されておらず平地が広がる。
これが気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館なのだが、津波は4階まで達した。先程街で見た6.7メートルを全然超えている。
気仙沼向洋高校は校舎は伝承館となり、校庭は地元のお年寄りが集うパークゴルフ場となっている。
パークゴルフ場は上から見るとこんな感じだ。
すごく立派なパークゴルフ場!なんと36ホールもある。
値段も1日600円。貸出も300円と安い。
写真では少しわかりづらいかも知れないが本当に多くのお年寄りが集い、楽しそうにパークゴルフを楽しんでいる。
【気仙沼市パークゴルフ場】
では伝承館の中に入る。
料金は大人600円。
入るとまず10分ほどの映像を見る。
その映像は2011年3月11日。東日本大震災の日から翌日の様子をまとめたものだ。
地震が起こってから津波が来るまでの人の動き、そして津波、人々の声など当時のリアルが詰められた映像だった。
僕(オズ)は当時小学6年生。体育の授業の最中に地面が歪むように揺れ、すぐさま集団下校をし、家に到着し、おじいちゃんとテレビをみた。
その時見たニュースの様子、そしてその時の僕(オズ)の心情がよみがえる。
映像は、濁流に飲み込まれていく街、そしてそれを見ていた人たちの悲鳴が恐怖を感じさせる。
映像が終わり、当時の様子がわかる写真が並べられた通路を抜けると旧気仙沼向洋高校の校舎へと入っていく。
入ってすぐの光景がこれだ。
今でもこんなにリアルな状態で残っていることに本当に驚いた。そして考えられない光景が広がっている。
窓は外れ、その中に流れ込んできたがれき。そして破壊された教室。
元々普通に学生が集い、使用されていた教室だったというのがイメージできないくらいだ。
通路はこんな感じになっていて、左側を除けば破壊された教室がある。
手前には津波によって破壊され、無残な状態の教室。そして窓の外には緑が広がり平和な時間が流れる。
この対照的な光景が一度に見えるこの場所はなんだか考え深い。被災、復興、伝承という3つの言葉を物語る光景だと思う。
2階にも同じような光景が広がる。
がれきの中には、生徒がここで勉強していた軌跡も残っている。
そして3階には流れ込んできた車がある。
この無残な状態の車は地元の車屋さんから流れてきたものだ。
そして屋上へ。
屋上は5階に当たるが、当時気仙沼向洋高校の重要な資料を守るため職員が数名、また工事をしていた大工さんの20名程度がこの屋上に残っていた。4階まで津波が押し寄せたが、間一髪生き延びたのだ。
屋上に立つとこんな高いところまで浸水したのかというのと、目を瞑り当時の様子をイメージした時にすごく恐怖を感じた。
屋上のボードには心打たれることが書いてあった。
「海と生きる」
これは「気仙沼市震災復興計画」の副題として気仙沼市震災復興市民委員会が市民から募集し選定されたものだ。
先人たちはこれまで何度も津波に襲われても、海の可能性を信じて再起を果たしてきた。人智の及ばぬ壮大な力としながらも、海を敵視せず、積極的に関わり合って暮らしてきた。それは単に「海で」生活してきたのではなく、
人間は自然の1部であることを経済的に体得し、対等の関係を築いて「海と」生活していたと思言える。その態度が自然観や運命感、ひいては死生観となった。気仙沼の概念は海にある。今を生きる世代が海の可能性を信じ、復興成し遂げることが犠牲者への供養となり、実世界への希望となろう。理念を超えた観念をメッセージ化したのが「海と生きる」である。
というのがこの副題となった言葉の意味である。
悲惨な結果を残した気仙沼市の海。
しかしそれは気仙沼市の概念となるものとして自覚し、見捨てない。
そしてその海から自然観、運命感、そして死生観を与えるものとなったというところにすごく心打たれた。
だからこそ、標識などにも東日本大震災の跡を残し、忘れない。そして伝承するというのがあるのだろう。
4階にはこのようなものが見える。
壁が破壊されていることがわかるが、
実はこれは冷凍工場が津波により押し寄せられ校舎へ衝突し、壁を破壊した。
外から見ると、
このような感じ。
校章のすぐ横を打ち砕かれている感じがなんとも言えない。
工場自体が当たるなんて言葉で言われても想像することは難しい。
外を散策すれば車や木などあらゆるものが山のように積み重なっていて、当時の様子を語っている。
再度校舎へと入り、教室の前に置かれた2011年3月10日までの平穏な教室の写真を見ながら歩く。
そして最後、プロジェクターに移された旦那さんと娘さんを亡くした家族の物語、奥さんを亡くした夫の物語、東日本大震災直後に行われた卒業式の映像を見た。
特に東日本大震災直後に行われた卒業式の映像は、当時小学6年生で卒業式間近だった自分たちと置き換えて考えた時に、同じ時に大切な人を亡くしたり、大事な生活が失われたことを考えるとすごく悲しくなり考えるものがあった。
そして退館した。
一言で言うなら、
「絶対に来た方がいい」
こんなこと思えるところって本当に少ないと思うが、ここは来た方がいいと思う。
大災害を体験する人は、ほんのひと握りの人で、ほとんどの人が体験したことないと思う。
僕たちもその一人で、自分のいる街が破壊される。自分の大切な人が亡くなってしまうことなんて今後も含めてないかもしれない。
だけど、
同じ日本でこのようなことが起きて、ニュースやSNSを通して、このような事実があることは知っていると思う。
だからこそ、現地に行って少しでもその事実を体感することは大事だなと思った。
この後は、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館のすぐそばにある海辺へと向かった。
これが何かわかるだろうか。東日本大震災後に建設が始まった堤防である。
高さは海から7〜8メートルくらいで、海岸線に果てしなく続いている。
台風19号の際、僕(オズ)が住む近くを通る多摩川は氾濫して、1階部分が浸水してしまう地域があった、その際行政が多摩川沿いに堤防を作ることを提案したが、市民の一部から「景観が壊れる」という理由で話し合いが続いたというニュースを目にした。
しかし、自然と隣り合わせで生きていく人類としてやはり出来ることは進めていかないといけない。東日本大震災を始め、その後大きな災害はいくつも起こってきた。その時に受けた教訓を親身になって考えなければならない。
だからこそこういう場所へ来ることは大事だと思う。
その後昔ながらの温泉であった友の湯へ行き、疲れを落とした。
【住所】〒988-0077 宮城県気仙沼市古町一丁目3-23
この友の湯は創業62年で地元に愛された銭湯。
気仙沼市や近くには綺麗で大きなスーパー銭湯があるにも関わらず僕たちがここを選んだ理由は、東日本大震災直後も休館せず営業を続け、地元の人に癒しを与え続けたと言うことを聞いていたから。
値段も400円で昔ながらの雰囲気ですごく体の疲れがとれた。
それにソファーでゆったりとしていると友の湯の主人が声をかけてくれた。
駐車場に止めてある、「日本一周中」と書かれたバンを見てくれていたみたいで、「頑張ってね!」と、なんとピーマンのジェラートをくれた。
ピーマンのジェラートなんて食べたことなかったけど美味しかった!口にいれると最初ピーマンの味がガツンと来るがだんだんクリームのまろやかさに包まれて、ずんだのような味に変わっていく!
ジェラートまでありがとうございました!
気仙沼市、同級生の存在もあり必ず来たかった場所。一日という短い時間ではあったが本当に来れてよかった。
気仙沼市では海鮮などのグルメ、観光スポットを通して観光に力を入れ始めているので、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館も含めてぜひ観光に来て欲しい。
仙台市で一休み
気仙沼市を後にして僕たちは宮城県最大、東北最大の都市である仙台市へと向かった。
仙台市までの道のりに広島の宮島、京都の天橋立と並ぶ日本三景のひとつである松島があったので、朝日を見に行くことにした。
松島は、松島湾に浮かぶ260余りの島と辺り一帯の景観のことでミシュラン・グリーンガイド・ジャパンでも三つ星を獲得するほどの景観である。
松島を見るために絶好のビューポイントは4つあり、松島四大観と呼ばれている。
僕たちはどこが良いかわからないがとりあえず一つのビューポイントへと向かった。
到着したのは、扇谷(霊観)と呼ばれるところ。
【住所】〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島桜岡入1
もう時刻は夜の10時を回っており、もちろん見えないので就寝をし、朝日を待つ。
そして翌朝5時半頃、眠さに勝利し少し階段を上がると展望台へ。
奥に見えるのが松島。
少し遠くて見にくくはあったがとりあえず日本三景の松島を見れてよかった。
ちなみに霊観とは「、ひっそりとした奥深い眺め」というり意味がある通り、ひっそりと眺めることが出来る。
観光エリアから徒歩で行くことが出来るのと、人があまり来ないという点ではいいが、眺めとしては、他のところの方が良いかも知れない。
ちなみに松島四大観は、
- 【東】大高森 (壮観)
- 【西】多聞山 (偉観)
- 【南】富山 (麗観)
- 【北】扇谷 (幽観)
がある。
そして松島を後にし、仙台市へと向かった。
途中マクドナルドで作業を挟み、仙台市で会う予定をしていた友だちと待ち合わせした。
到着したのは、仙台駅!
よくテレビやSNSで見る光景だ。
「ついに仙台市にきたか」という感じだ。
それにしても大都会だった。
札幌市を抜いて、バンライフ始まってから約1ヶ月半。そこまで都市にはいなく、ここまでの大都会へ来ると少しびびる。
友だちと合流した後、念願の仙台名物である牛タンを食べに来た。
到着したのは炭火焼き牛タン・善次郎駅前本店!
【住所】〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央一丁目8-38
地元の人にも大人気の牛タン屋さんらしく、全国チェーンになっている某牛タン屋さんなどとは比べものにならないくらい美味しいらしい。
到着すると行列が出来ていたが、意外早めに入れた。
そして頼んだのが、牛タン定食!
牛タンに麦ご飯に漬物。あとは牛すじスープととろろ。
もう幸せすぎた。
牛タンを堪能し、仙台市の街を少しぶらついた後、僕(オズ)とシュウトが楽しみにしていた、伊達政宗の像を見に行くことに。
伊達政宗の像がある青葉城跡は、夜は夜景の名所となり、カップルやファミリーで賑わう。
しかも閉園後は駐車場代がかからない。
そして到着。駐車場を抜けるとドーンと現れた伊達政宗像!
伊達政宗らしく紫色のライトアップ。
戦国時代の武将の中でもトップレベルに好きなので像を見るのは夢だった。
実は伊達政宗はグルメ男子で、ずんだ餅、伊達巻、そして味噌汁を発明したと言われている。
さらに男らしいエピソードをたくさん持つので伊達政宗が大好きである。
ちなみに僕(オズ)の小学生の卒業アルバムの表紙には伊達政宗の家紋が書かれている笑
そして伊達政宗像の反対側には大都会仙台市のビル群が広がり綺麗な夜景!
180度広がる夜景に圧巻!
これは最高のデートスポットだね!
今度は男3人で来ないようにする。
この日は友だちの家に泊めてもらえることになったので、バンを有料駐車場へと入れた。
友だちの家ではたくさんお話ししたり、夜ご飯を作った。連絡をもらって「ぜひ会いたい!」と言ってくれて初めて会った友だちだったがめちゃくちゃ仲良くなり、楽しかった。
翌日朝早くにお別れをして僕たちは車を走らせた。
移動中話していて印象的だったのは、「日常と非日常が変わっている」ということ。
どういうことかと言うと、僕たちは普段学校に通ったり、地元の友だちと遊んだり、実家に住んでいたり、これが日常で非日常を味わうために旅を出た。
しかし日本中を旅をして、知らない土地、そしてバンの中で生活するという非日常がいつの間にか日常へと心情的にも変わっていった。
そして昨日友だちと一日中普通に遊んでいて、普段だったら当たり前の日常だったが、友だちと待ち合わせして、遊んで、友だちの家に泊まり行くと言うことが3人とも非日常に感じた。
非日常が日常に、日常が非日常に変わっていったこの感覚がなんだか違和感に感じた!
なんだか面白い感覚だった。
その後、僕たちは仙台市の郊外へ車を走らせスケボーをしに、R beach skates parkへと向かった。
【住所】〒984-0033 宮城県仙台市若林区荒浜南丁40-1
シュウトはスケボーが趣味で、バンにスケボーを積んできた。よく一人でスケボーをしに行っているが、今回は3人揃ってスケボーパークへ向かった。
実はこのR beach skates parkがある地域は津波により壊滅してしまった場所だ。
辺りは平野となっていて建物もない。現在は道路の工事などが進んでいる。
近くにある海も東日本大震災後、堤防が建てられているし、海水浴は禁止されている。
そんな地域にあるスケボーパーク。僕たち3人で来る理由にもなった。
シュウトはめちゃくちゃ上手いので飛び回っていた。
僕たちはペニーと言われる移動用クルーザーでスイスイと走ったり、ちょっとだけシュウトにスケボーを教えてもらった。
このスケボーパークにはある想いがある。
それが、この地域は跡形もなく、震災直後は見るも悲惨な状況。このまま人が去り、この土地を忘れ去られてしまうことを悲しく思うローカルの気持ちと復興への願いから誕生したということ。
【R beach skates park】
震災復興の架け橋となる存在を目指したスケボーパークだった。
先程も述べられた通り、辺り一帯は何もない。
そんな中にポツンと建てられたスケボーパークが本当に架け橋になってくれたら嬉しいなと感じた。
さいごに
今回は、1か月もの間バンライフをした北海道を抜け、本州へ戻ってきたところからのスタートだった。
気仙沼市や仙台市などでは東日本大震災から多くのものを感じ、考えさせられた。
日本一周だからこそ、普段行けなかったところへ行き、ニュースやSNSでしか知らなかった現実が、実際にその土地に訪れることによって改めて認識し感じることが出来たことは本当によかったなと感じている。
その他にも、岩手県盛岡市では盛岡冷麺、宮城県仙台市では牛タンなど美味しい名物もたくさん食べれたので良かった。
次回は東北を抜け関東から名古屋までのバンライフだ!憧れの地へ行ったり、たくさんの友だちと会ったり、楽しいバンライフが始まる!
~第17回に続く~